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歌人・田中保子氏の連載・第8弾、好評連載中!
どうぞお楽しみください。

文・田中保子(たなかやすこ)

歌人。短歌の会BOU主宰。 著者に『歌のおとづれ』(白川書院発行)など。



第九回   NEW 第九峰 北白川山 
第九回   第八峰 瓜生山  
第八回   第七峰 茶山  
第七回   第六峰 一乗寺山  
第六回   第五峰 葉山  
第五回   第四峰 修学院山  
第四回   第三峰 赤山(せきざん)  
第三回   第二峰 御生山(みあれやま)  
第二回   第一峰 比叡山(ひえいさん) その二 伝説から偲ぶ歴史 
第一回   第一峰 比叡山(ひえいさん) その一 名称から偲ぶ歴史

  第十回  第九峰 北白川山
 北白川山は、北白川山の元町(ヤマノモトチョウ)の東部、高さ一三〇メートルほどの丘陵です。地元では丸山とも、もともとその東の瓜生山の山頂にあった勝軍地蔵が参詣する人の便利のために下の山、北白川山に遷座したことから、その威厳のため瓜生山と混同して呼ばれるようにもなりました。

 地蔵の移転は宝暦十二年(1761)ながら、現在もその影響は続き、その地に建設した大学の学園祭も瓜生山祭、そこに生活する人々も瓜生山と呼んでいますが、正しくは北白川山であります。  さて、江戸時代の地誌によりますと、白川村東北一帯の山はすべて白川山と呼ばれたとも見えます。北白川の名物は白川女です。かってこの山里は花の里と呼ばれ「女は献花をなりわいとする」といわれて、つい先ごろまで古来のしきたりによるいでたちで町に花を売り歩いていました。朝ごとのその花の何とみずみずしかったことか、ほんとうに惜しまれることです。  なお山腹、現在のバプテスト病院の裏手には、心性寺という寺の跡地がありますが、そこには江戸末期の歌人小澤芦庵の墓があります。芦庵を師事した太田垣蓮月は一時、この寺に身をよせていたことがありました。

  世のうさもしら川山の夕ぎりに石きる音ぞあわれなりける
蓮月

 このあたり、また白川石と呼ばれる美しい花崗岩の産地であったのでした。

  第九回  第八峰 瓜生山
         瓜生山、北白川山、茶山とその運命のように呼び名が入り乱れて・・・
 瓜生山は「城山」の俗称もあるように昔の古城跡でもあります。瓜生山の頂上には室町時代、瓜生山城とか、北白川城とか呼ばれる小さな城郭が築かれ、足利将軍家と細川、三好、松永氏らとの攻防が繰り返されたのでした。
この山に登るときにはいわれたものです。足の下の土の中には人骨がちらばっていると。

 また瓜生山が将軍地蔵山とも呼ばれるのは、京都に戦いが絶えなかった時代、延文6年(1361)山頂に戦勝祈願の地蔵堂が建てられてからです。ところが、山頂までは当時、難路のため宝暦12年(1762)、下の足場もよい北白川山に移したため、北白川山を瓜生山と呼ぶ人もあり現在、呼称が入り乱れています。その下だった山、低い山の茶山は現在、大学建設のため姿を失い、その名は前回に書きましたように叡山電車の駅名にしか残らず、余計、呼称がみだれているようであります。
 いずれにしろ瓜生山は一番奥、頂に近い清沢口には100平方メートルほどの陥没地があり、そこに明治大正の画家、富岡鉄斎が建てた「白幽子巌居址」があります。白幽子は詩仙堂の石川丈山の友人で、江戸中期の書家とされる伝説的人物です。その巌居址は晴れた日など、加茂川のあたりからも、それと思われる所在が見られます。

  第八回  第七峰 茶山
 茶山は今、叡山電車の駅名にしか名前を残さないのは寂しいかぎりです。茶山は東山三十六峰に名をかぞえる山です。その一峰がなくなってしまったように見える状態になるということは、風光明媚をもって旨とする京都にとって大変なことであるはずです。

 茶山は現在の白川通り南行市営バス上終町(かみはてちょう)乗り場のあたりから東へ向いて低い丘陵をなしていました。 
 現在の土地事情から説明しますと、上終町バス停から北へ、すぐの東へ登る道の角に「滅苦寺(めっくじ)跡」と印された碑が建っていますが、その場所の付近、特に右側の台地は確かに茶山であります。しかし現在は山の姿はなしておりません。
 所有は、古くは織田信長から森蘭丸、豊臣家、後に徳川家から江戸時代の京都の長者の一人、茶屋四郎次郎と移りましたが、名園茶山園として、時、長くに伝えられてきた山であったと聞いています。
 近代に至りましても跡を継いだ人が二千種に及ぶ植物を植え、自然に長く、その姿が伝えられ、近くの小学校の卒業生の話によりますと、池があって舟が浮いていたとも、その面影は長く留められていた様子であります。
 東山三十六峰の奥から瓜生山、北白川山に続く山として、麗しい姿をなしていたのは、ついこの間のことであったと思いますのに。いまは山という姿は消え失せました。その名がはるか離れた駅名に残っているのは、茶屋四郎次郎が山荘に出かけるための道を離れたところから作ったことによります。その道は現在も茶山道として、付近住民の便宜に役立っています。
 なおこのあたりは、太古、湖でありました京都盆地で最も早く、人間が生活していたところと伝えられています。

  第七回  第六峰 一乗寺山
 一乗寺山は小高い岡くらいの山でその名は平安時代に創建された一乗寺という天台宗のお寺に始まりましたが、南北朝の動乱で廃絶、現在ではその寺はどこにあったかは不明となりました。したがって山と地名に名を残すのみです。

 先の葉山の項で、そのあたりからすぐと書いた詩仙堂はここにあります。ご存知、丈山の隠棲地として有名、丈山は徳川家から離れてからは、世俗に背を向けて一級の詩人としての生涯をこの場所で過ごしたのでした。
 南裏にあたる金福寺は芭蕉ゆかりの寺。蕪村がここに芭蕉庵を再興、芭蕉の「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句碑もあります。なお幕末、安政の大獄で幕府のスパイとして活躍、のちに勤王方に逮捕され、三条大橋に生き晒しとなった村山たか女が隠棲したところでもありました。
 少し北東にもどりますと臨済宗、円光寺があります。このあたりは洛北屈指の観光地ともいえましょう。円光寺は家康ゆかりのお寺で円光寺木活字が残されているところでもあります。明治ごろから近年までは尼僧修養道場となっており、現今も京都の尼寺に活躍する多くの尼僧が育てられたのでありました。

  第六回  第五峰 葉山(はやま)
 葉山は一乗寺葉山町、修学院山に続く小さな山、どこからどこまでとは言いがたいが、この隠れ山のような山には幕末の安政の大獄で病死した、梅田雲濱が隠れ住んでいました。

 東山三十六峰の山裾伝いに歩いて見るのもいいものです。修学院山の修学院離宮からその下の道を南へ行くとすぐ曼殊院、西へたらたらと下って民家の横から北へ、細い道を森の中へ入りますと鷺の森神社、森をそのまま突き抜けてまた南へしばらく歩きますと、その左手、東側に葉山の観音さんの入り口が見えます。石段を上りますと小さなお堂があります。その背後が葉山です。
 こう書きますと遠いようですが、そんなことはありません。京都へお越しになりましたら、絵に描いたような観光ルートだけではなく、一度はぜひ、この辺りをお歩きになってください。名高い「詩仙堂」はここからすぐです。
 石段をのぼりつめますと、小さな土地に観音堂があります。境内は市街地がすぐそばとは信じられない静かさです。葉山の名前はこの観音堂を守護してきた近くの一乗寺村の住人、端山元春さんに由来するといいます。
 ここで有名なのは、始めに書きましたように勤皇の志士、梅田雲濱のことです。彼は若狭小浜藩士、京都で医を業としていましたが、幕府の目を逃れるため妻とともにこの葉山観音に隠れ住んだのでした。
 妻、信子がここで詠んだ一首があります。

  山寺の鐘の音さへ分かぬまで比叡の木枯ふきしきるなり

 思い見ますと、葉山観音のあたりはいまも、このような趣が感じられるところではあります。

  第五回  第四峰 修学院山
 今なお、上皇の美学に守られて、美しい修学院でありたく、また比叡に繋がる流れには時折、鹿の姿もあらわれて、離宮内の田は豊年満作のうれしさに溢れている頃合かと。
 修学院山は、比叡山の登り口、雲母坂を境として比叡山の西南にこんもりと広がる丘陵です。修学院の地名は、古くに、ここに比叡山の末寺修学寺があったことに由来します。修学寺とは比叡山の僧が修学のために籠った寺でありました。
  しかし何といいましても、いま修学院といいますと修学院離宮です。修学院離宮は後水尾天皇(1596−1680)の美意識の象徴で、一木一草まで直接、指揮したといいます。後水尾天皇は純粋なお方であったらしく、天皇の行動に規制を加えた徳川幕府に激怒、突然退位、その後、院政をしきましたが、関心は和歌、茶道、立花、焼物などの文化サロンにあり、中でも山荘の運営は最大の願いでありました。
  上皇が修学院に山荘造営を決心したのは明暦元年(1655)、離宮は約54万平方メートル、御茶屋と呼ばれる3つの庭からなっています。上の茶屋は大刈込みの苑路や赤松の道で通わせ、浴竜池では舟遊び、優雅な宴を繰り広げたのでした。
  地内の林丘寺は中の御茶屋の東に隣してあります。後水尾上皇が皇女光子内親王のために茶屋の正殿楽只軒を仏寺とされたもので、上皇の没後、内親王は剃髪、当寺に住事して当寺は林丘寺と称されたのでした。それより皇女が入寺されること三世に及んでいました。
  「京に田舎あり」という言葉がありますが、修学院あたり、人家が増えたといえ、市中と比べますと、なんとなくのんびりとしたところも伺えます。高野川のあたりには、鹿が迷い出ることもありまして、よいものです。これも修学院離宮のおかげかも知れません。わたしども京都の一般市民は観光より静かな環境が保たれることを乞い願っております。しかしながら、それであってこそ、又皆様に愛でていただける京都でありましょうかとも。 

  第四回  第三峰 赤山(せきざん)
       赤山は中国の地名、慈覚大師円仁が遣唐使としての
       十年間の中国への感謝を込めてつけた名でした。
  赤山は、白川通り市バス「修学院」下車、山手東へ赤山道をしばらく歩いた天台宗赤山禅院に由来する高さ一九六メートルの山です。
山の名を表す赤山禅院が創建されたのは、仁和四年(八八八)第三代天台座主・慈覚大師円仁の遺言によりました。円仁は最後の遣唐使船で唐に入り十年間の、その苦難の記録『入唐求法巡礼行記』には、中国文登県清寧郷赤山村での暖かい援助を涙するほどに感謝して記しているといいます。
赤山禅院の建立は、赤山村の人たち、多くの中国人への感謝と仏恩報謝のための円仁の悲願であったのです。
そうして建立された赤山禅院は、京都御所の表鬼門にあたり御所をお守りするお寺、また延暦寺の守り神さんでもあるという神仏習合の色を濃くして、大鳥居には、「赤山大明神」と示され、人々はここを「赤山さん」と呼んで親しみをこめています。
拝殿の屋根には厄除けの猿が「去る」の意をこめてまつられています。なお、へちま加持、都七福神、夢見の宝船なども有名、まこと庶民のお寺でもあります。
しかしながら、当寺は比叡山千日回峰行者さんの聖地でもあり、祈りと苦行の山、赤山でもあります。といいますのは千日回峰行者さんは、午前二時比叡山の無動寺谷の明王堂を出発して、一日三十キロの回峰を五年で七百日、この後、生き葬式と呼ばれる堂入り、九日間の不眠、不臥、断食断水という荒行を終えた後、こんどは赤山まで一日五十キロの赤山苦行を三百日、さらに八十四キロの京都大回りを行うのでした。そのときは赤山禅院には早朝、ひざまづいて行者さんのお数球をうける人が集います。

次回は第三峰「修学院山」

  第三回  第二峰 御生山(みあれやま)
        京都に住んでいても知らない人の多いその行列は、二千五百年前に始まった
 御生山は神がお生まれになった山、すなわち、玉依媛命(たまよりひめのみこと)が上賀茂神社の祭神、別雷神(わけいかずちのかみ)をお生みになったところです。
比叡山の壁がすぐ後ろに迫る山ですが、叡山電車三宅八幡駅から東北方向、山手に二キロ、小さな橋を過ぎ、そのあたりから木の根もあらわな山道を登りますと朱塗りの鳥居、すぐに苔むした石垣が続き、やがて御蔭神社に至ります。
御生山はまた御蔭神社があるところからでしょうか、御影山とも、また二葉の葵の群生しているところから、二葉山とも呼ばれますが、代々、高野、八瀬、修学院に住む人たちからは御生山と呼ばれています。高さは二百五十メートルほどの山です。
この山が一番賑わうのは五月十二日、葵祭執行のため、下鴨神社が御蔭神社の祭神、玉依媛命と、その父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の荒魂(あらみたま)をお迎えする神幸祭が行われる日で、その神事は京都で一番古い神事とされています。正装した神職、従者らが烏帽子(えぼし)に葵と桂の葉をかざし、従います。
下鴨神社の祭神と同じなのですが、下鴨神社の祭神は和魂(にぎたま)で庶民に愛される優しい祭神でありますので、葵祭執行のための力として、強い荒魂(あらみたま)をお迎えするための行事であります。
一昔前までは、行列は山道にえんえんと続きました。蘇芳(すおう)、朱(あか)、鈍(にび)、縹(はなだ)、色とりどりの祭衣をまとった宮人らが、優雅な馬上姿を見せ、検非違使(けびいし)、衛士(えじ)、音楽を奏する役の伶人(れいじん)が神妙に供奉しました。折からの五月晴れの空の下に、比叡山の新緑を背後にしたその行列の印象はじつに優雅で、じつに壮麗で、いつまでも眼に残るものでありました。
京都の人も知らない人が多いその行列は二千五百年前に始まりました。近年、「神さんは重とうおっさかい」とか、そんなことでよろしおすのでしょうか、自動車に分乗お供していますとか。昔を知る者を嘆かせております。

次回は第三峰「赤山」

  第二回  第一峰 比叡山(ひえいさん) その二 伝説から偲ぶ歴史
  「経読む髑髏」。伝教大師がはじめてこの山に登られた当時については色々な伝説があります。いまここに挙げるのもその一つです。ひえいさんに分け入ってからまだ間もない伝教大師、当時の最澄和尚が、静寂が身にしむような夜に草庵に端座していたとき、どこからともなく朗々と冴え渡る読経の声が聞こえて来ました。まさか誰一人こんな山中にいようと思わなかった最澄でしたが、耳を澄ましていますと、それは疑いなく法華経をとなえている声です。
 やがてその不思議の声に誘われて草庵を出た最澄は歩き回った末、やっと止観院の西にある小高い塚のあたりに、その出どころを突き止めたのでした。かってから、法華三昧院の建立を思い立ちながらも行き悩んでいた最澄は、こここそ有縁の土地に相違ないと思い定め、間もなく地ならしにとりかかったとき、一つの生々しい血のしたたるような舌をもった髑髏が発掘されたといいます。
 毎夜々々、人影もないのに朗々と経をとなえる声がしていた謎がはじめて解かれたのでありました。
 「ひくひくめ」。これは子供の遊戯として、遊んだ経験を持つ人も多いと思う かくれんぼと同じで、昔、ひえいさんの般若院の広庭にはじまった遊びでありました。「和尚様!、さあ早う出ておいでなさいませ、またいつものようにひくひくめをいたしましょう」と般若院の広場に集まった子供たちが、口々にはやしたてる声に応じて、やおら立ちあがられた恵心僧都は、「おヽ。これはこれは大勢集まっているのじゃな、さあそれでは今日もまた、しばらく見せてもらおうかな」とおっしやりながら、日当たりのいい縁先にどっかと腰を下ろされるのでした。
 やがて二組に分かれた一方の子供が、他の組の子供をつかまえて奪い去ろうとします。一方は奪われまいとします。これは罪びとが獄卒にひかれていくのを、地蔵菩薩が助けようとなさる様子をあらわしたもので、恵心僧都が経文の諸説になぞらえて子供たちに遊戯せしめたものでありました。子供といいますが年端もいかぬ小僧さんであったかも知れません。
 出来ましたらひえいさんは一度、歩いてのぼり、歩いて東塔、西塔、横川と尾根伝いに廻ってください。幾種類の花を見、鳥の声を聞くことでしょう。それもひえいさんの姿、ひえいさんの声そのものでもあり、教えでもあると気づかれることでしょう。

次は第二峰「御生山」(みあれやま)

  第一回  第一峰 比叡山(ひえいさん) その一 名称から偲ぶ歴史
  ひえいさんは、われわれが毎日見ている山です。見ているというより自然に首をそっちに向けますと見える山です。
  わたしは小さいとき、身体が弱くて、このまま町の中で暮らしていましたら、大きくなれないといわれましたそうで、あわてた親たちは大事をとりまして、わたしをひえいさんの麓の一軒家に転地療養させてしまいました。そんなこともありまして、わたしにとりまして、ひえいさんは親のような山です
  さて歴史といいますより、その名称の一覧を並べましたらそのこともわかるように思えます。まず、もとは「ヒエノヤ」と呼び、日枝、日吉、比叡などの漢字があてはめられていましたが、「日得山」は火の神の光を得ようとして、しかも、この山に向かって祈ると、かならずその光が得られるゆえにその名がありましたようで、「比江山」は東麓、近江平野にたたえる湖水と相対比する山として、「比枝山」は近江の国栗太の郡に神代から栗の古木があり、亭々として空をうがち雲に入って、その枝があたかもこの山と並比したことに由来します。なお「我立杣(わがたつそま)」は伝教大師が始めてこの山に中堂を建立し給えるとき「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ」と詠じたことからでした。「天台山」は、天台宗の縁にて中国の山名を模すことから、「台嶺」は台嶽とともに天台山の略称としてでした。なお「北嶺」は奈良の諸大寺を南都と称するに対して用いられ、時には高野を南山と呼ぶ対称として等々であります。
  伝説として残るものに、「椿堂」があります。この物語は西塔の入り口にあるお堂の話ですが、伝教大師以前のひえいさんについて、一つの暗示を与える伝説です。「実に幽寂なお山じゃのう、かの天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)もおそらくこのようなおやまであろう」などと語りながら老樹鬱蒼とした山の中を歩まれたのは聖徳太子でありましたとか、そのとき太子が杖にしていた椿の枝をつきたてられたところに建つ堂がいまも千年の名を残す椿堂であります。
  ひえいさんのはなしは途絶えることがありません。ひえいさんは、いまも、ただ自動車であがり、すぐ、走りぬけて降りてくるようなところではないと思います。


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