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東山三十六峰
歌人・田中保子氏の連載・第8弾、好評連載中!
どうぞお楽しみください。

文・田中保子(たなかやすこ)

歌人。短歌の会BOU主宰。 著者に『歌のおとづれ』(白川書院発行)など。



第三十七回   NEW 【最終回】 第三十六峰 稲荷山
第三十六回   第三十五峰 光明峰
第三十五回   第三十四峰 恵日山
第三十四回   第三十三峰 泉山
第三十三回   第三十二峰 今熊野山
第三十二回   第三十一峰 阿弥陀ヶ峰
第三十一回   第三十峰 清閑寺山
第三十回   第二十九峰 清水山
第二十九回   第二十八峰 鳥辺山
第二十八回   第二十七峰 霊山
第二十七回   第二十六峰 高台寺山
第二十六回   第二十五峰 東大谷山
第二十五回   第二十四峰 双林寺山
第二十四回   第二十三峰 長樂寺山
第二十三回   第二十二峰 円山
第二十二回   第二十一峰 華頂山
第二十一回   第二十峰 粟田山(あわたやま)
第二十回    第十九峰 神明山
第十九回    第十八峰 大日山
第十八回   第十七峰 南禅寺山
第十七回   第十六峰 若王子山(にゃくおうじやま)
第十六回   第十五峰 椿ヶ峰
第十五回   第十四峰 善気山
第十四回   第十三峰 紫雲山
第十三回   第十二峰 吉田山
第十二回   第十一峰 如意ヶ岳と大文字山 
第十一回   第十峰 月待山 
第十回   第九峰 北白川山 
第九回   第八峰 瓜生山  
第八回   第七峰 茶山  
第七回   第六峰 一乗寺山  
第六回   第五峰 葉山  
第五回   第四峰 修学院山  
第四回   第三峰 赤山(せきざん)  
第三回   第二峰 御生山(みあれやま)  
第二回   第一峰 比叡山(ひえいさん) その二 伝説から偲ぶ歴史 
第一回   第一峰 比叡山(ひえいさん) その一 名称から偲ぶ歴史

  第三十七回  第三十六峰 稲荷山【最終回】

 比叡山から三十六峰目、最終の稲荷山、五穀豊穣を祈りのを原点とする山のご紹介となりました。昔から東山は「寝釈迦」の姿と申しまして、お釈迦様が寝られた姿そのままなどと、わたくしどもは幼いころから親に教えられたものでございました。今月はその最後、稲荷山をご紹介いたします。
 
 ここ稲荷山は、全国に四万はあろうとされます稲荷神社の総本宮にございます。古くから五穀豊穣、商売繁盛、招福除災の神さんとして人気を保ち続けてまいりました。
 
 山そのものが祈りの対象にて、庶民にとりましては商売繁盛の効き目抜群と聞かされてまいりましたところでございます。稲荷は3つの峰から成っておりますが、その三ヶ峰をめぐる人々がお正月などは延々と並んで見えます。
 
 山をめぐり本殿から奥の院、それから峰々を巡っておりますと、途中、茶店などもありまして、楽しいことでございます。また逆に山科からも登れます。そのあたりは、元禄忠臣蔵の主役、大石良雄が山科から伏見へ通った道でもありました。
 
 また稲荷大社には多くの祭礼があります。主なものは1月5日の大山祭、2月初午(はつうま)の日の初午、5月3日の神幸祭、6月16日のお田植祭、7月22日の本宮祭、11月8日のお火焚などなどです。
 
 これにて、東山三十六峰の机上の旅も終わりました。わたくしは、30年近く前に同じ、三十六峰の現地取材の仕事の一部を受け持ったことがございます。今回は机上の仕事でございましたが、しかしながら、その変わりように驚いております。今は忘れられて無くなりかけている山もございます。
 
 京都がその代名詞ともします、「東山三十六峰」をどうか大事にしていただきたいものと切願いたします。


  第三十六回  第三十五峰 光明峰

 光明峰は先に書きました恵日山の東、泉山の南に隠れるようにひっそりと静まっている山です。その名は九条道家が九条家の菩提寺として光明寺をたてたことに始まります。国宝三門と仏殿の間の坂をのぼりますと廟所があります。九条家は明治になって三十代道孝のときに華族となり、九条、二条、一条の三家に分かれましたが、ちなみに五摂家とはこの三家と近衛、鷹司家を合わせて呼んだものです。

 東福寺南の六波羅門の東が車坂、昔、公卿達が牛車に揺られて伏見稲荷にお参りしたのでその名があるといわれています。この坂を少し登りますと仲恭天皇九条陵と祟徳天皇皇后聖子の月の輪南陵があります。その西には幕末に官軍側に立って戦死した四十七人の墓碑が並んでいます。ゆるりと歩いていますと歴史的なところがたくさんに見られると言う訳です。この辺りの高みに立って見渡す市中にはまた、計り知れない歴史が、思えば無常が見られるものでございます。

       哀れなり草の影にも白露の かかるべしとは思はざりけん
九条前摂政右大臣

  第三十五回  第三十四峰 恵日山

 恵日山(えにちさん)、その山号はいろいろ説がありますが、東福寺のお坊さんの説によるところでは、東福寺の山号、恵日山から出たものといわれています。

その根源、東福寺は摂政九条道家が延納元年(1239)に聖一国師を開山に迎えて創建されました。奈良東大寺の「東」、興福寺の「福」から東福寺と名付けたことが道家の発願文にあるそうです。当時から日本一の寺を目指していた様子が伺われます。

 日本最大級の国宝三門(室町)、重文禅堂、同く東司(とうす・室町時代の禅堂の便所)国宝龍吟庵の方丈など多くの文化財を持ち、大仏殿の本尊釈迦如来は高さ十五メートル、左右脇侍の観音・弥勒像は各七・五メートルもあり、新大仏と呼ばれたといいます。

 また当地は京都でも随一といわれるほどの紅葉の名所でもありますが、その季節の通天橋(つうてんきょう)と名付ける橋のあたりの見事さはまこと特別でございます。ところで、渓谷からおしつつむように幾千本とも知れないも紅葉が繁茂してるのですが、それらは葉の先が三つに分かれている珍しいもので、一説に聖一国司が宋から持ち帰ったとも言われています。


  第三十四回  第三十三峰 泉山

 東大路から泉涌寺へたどる道はなだらかながら800メートルはありましょうか、普通の道ではありますが、思えばこの道は歴代天皇の御参道ではあったことを偲ばせる何かがあるような気がします。

 真言宗泉涌寺派の本山泉涌寺の山号は泉山(せんざん)、参道を上りきったところにある四脚大門(重要文化財)の額に「東山」と、刻まれていますが、これは、かつての山号でありました。

 ところで、泉涌寺は皇室の香華の寺と呼ばれていますが、その起こりは二歳で即位し、十二歳で亡くなり泉涌寺に葬られた四条天皇にさかのぼります。天皇はまだお口も充分に話せないときに、「自分は前世の泉涌寺の開山であった」と話されたそうで、開山が死んでも泉涌寺のため働こうとした証であるあると、語りつがれております。

 広い境内はそぞろ歩きをしますと心ひかれるものがたくさんあります。仏殿には運慶作という釈迦・弥陀・弥勒の三尊像、天井には狩野探幽の雲龍図があります。

 仏殿の右手に『枕草子』の著者、清少納言の「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌碑があります。彼女は近くに住み、泉山に眠る一条天皇の中宮定子に仕えていました。


  第三十三回  第三十二峰 今熊野山

 今熊野山一帯は平安末期、後白河法皇が院政をとった法住寺殿跡です。法皇は紀州熊野権現をあつく信仰なさり、応保2年(1162)、ここに熊野権現を勧請され、当時は新熊野と呼ばれていました。「新」が「今」になり現在のように今熊野と呼ばれるようになったのは明治4年からです。

 新熊野神社で有名なのは、室町幕府3代将軍足利義満の観能があったことです。応安7年(1374)観阿弥と世阿弥父子が将軍の前で舞ったことがありました。後に能で大成する世阿弥は時に12歳、義満の寵愛を受けたそうですか、6代義教将軍のとき、なぜか理由は不明になっていますが、佐渡に流されました。いろいろと不思議なことがあるものと思われます。

 ところで、JR東海道本線と新幹線の東山トンネルの上が今熊野山となります。東大路の東、今熊野剣ノ宮町の剣神社は子育て、虫封じの神様、滑石街道沿いに真宗大谷派の延仁寺があります。ここは古くは火屋谷と呼ばれ、山沿いに延仁寺と呼ばれる寺の広い墓地がありますが、その奥深くに見真大師御荼毘(だび)所の石碑が立っています。見真大師は浄土真宗開祖親鸞聖人です。ここで上人の亡骸を焼いたと伝えられています。お花の絶えないところです。

 またこのあたり、今熊野は陶業者の多い地です。大正2年ころ、この地の蛇ヶ谷に築窯されたのが日吉町陶業の始まりとなって、大正7、8年ごろには、百戸以上の業者が集ったといわれています。


  第三十二回  第三十一峰 阿弥陀ヶ峰

 阿弥陀ヶ峰は、その名からしてわかるように、元々鳥辺野と呼ばれた弔いの地、即ち葬場ですが、環境からして最高の葬場でありました。山の名は天平年間(729-749)に行基がこの地に阿弥陀堂を安置し三昧場を開いたことに由来します。清少納言は『枕草子』十五段で代表的な峰としてここ「あみだの峰」をあげています。

 頂上に秀吉の廟所があります。東大路七条の妙法院と智積院の間の広い坂道を登ります。京都女子大学の通学路になっている道ですが、しばらく行きますとやや平坦な広場に出ますが、ここは太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれるところ、しかし、まだ阿弥陀ヶ峰の麓、ここから廟の参道、一直線の三百十四段の石段が始まります。

 上がりきって、ようやくかと油断をしますと、さらに急な石段が百七十二段もあって頂上に高さ十メートル余の巨大な五輪の石塔が立っています。これこそが天下に君臨した秀吉の廟所です。明治三十年、秀吉の三百年祭を記念して再建されたものです。

 この五輪の塔の側から林道があり、今熊野に下りられますが、そこから伏見稲荷へ抜けることも出来ます。伏見からは山科はすぐ、そして醍醐へも近い、秀吉が伏見城で息を引き取ったのは慶長三年(1598)、最後の晴れ舞台はその年の春の醍醐の花見でありました。


  第三十一回  第三十峰 清閑寺山

 清閑山へ辿る道筋は、清水寺の音羽の滝から南へ、子安の三重の塔、さらに山道を南へいくことになりますが、やがて真言宗智山派の清閑寺、その寺の裏山が清閑寺山と呼ばれる山ということになります。
 ところで、途中、「歌の中山 清閑寺」の石の碑が見えます。「歌の中山」は文学や古典によく登場する名で、春の桜、秋の紅葉、冬は京都市内でも特に寒く、雪の中山とも言えそうで、江戸時代中期の『雍州府志』では「歌の中山」を一つの山と見ているようではあります。
 『都名所図会』には歌の中山の伝説が出て来ます。さてその中山はまた、どこを指すのかということはさらに夢を呼ぶということになりましょうか。

 「むかし、清閑寺の真燕(しんえん)僧都という人住みける。ある夕暮れ、門外にたたずみて行きかう人を見いたりける折りふし、髪かたちめでたき女のただ一人行くを見て、たちまち愛心おこりければ、物言いかくべき便りなくて、清水への道はいずれぞと問いければ、女
  見るにただ迷ふ心のはかなくて
  まことの道のいかで知るべき
  と言い捨ててやがて姿を見失いける」

 このお話、つまりお坊さんが、女性を誘って、「女に迷うようでは仏の道をどうして知りえようか」と、女自身から言いとがめられるあたり、何となく楽しゅうて、可笑しゅうて、もうどこが中山でなどと考えることは、そんな無粋たことはやめましょうという気にさえなって来ます。いいえ、いいえ、結局、清閑寺山そのものがが、中山とさえ思ってしまったりもいたします。
ところで、話しが少しかわりますが、清閑寺はまた、高倉天皇と琴の名手として有名な小督局(こごうのつぼね)のロマンスにもかかわるところです。さりながらこの恋は、二女徳子を高倉天皇の中宮となしていた平清盛の怒りに触れて成らず、局(つぼね)はここ清閑寺において何と、尼にされてしまったのでした。なお、ここには幕末、西郷隆盛と清水寺の勤皇僧、月照が討幕の密議をこらした茶室「郭公亭」が近年まであったところでもあります。


  第三十回  第二十九峰 清水山

 清水山と呼ぶと、へえ、どこのことどすかいな、どこのお山どす? などといいたくなります。そうです、どなたさんもがああ、清水さんのことどすかいなということになってしまう、清水寺、こういっても、まだ、へえーといわれそうなお山で、「清水さん」と、一口にいうたほうが、手っ取り早いような山でございます。

 さて清水山には申しましたように、日本一の観音さんの霊場、清水寺がございます。山の高さは242メートル、やわらかい丸みを帯びた山です。わたしたちは山もお寺もこめて「清水さん」と、こころあたたこうに呼んでいます。思いますと京都の人間のおかしなところは何でもええ、どうでもええと思ってしますとお互い、仲間同志の呼び方をしてしまうことでしょうか。かえって相手を親しくに感じてということになるのでございますが。ただの観光案内と違いまして。

 さて、清水寺の創建は古く、京都に現存するお寺では太秦の広隆寺に次ぐ歴史のあるお寺です。創建は平安京より早く、坂上田村麻呂が本尊を安置、平安時代には観音信仰が盛んになり、奈良の長谷寺、大津の石山寺とも並ぶお寺となったのでした。平安時代から江戸時代にかけて度々火災に出合い、比叡山延暦寺の僧兵の襲撃にも度々、焼かれてしまいましたが、再建、現在の国宝本堂、舞台は徳川三代将軍家光が再建するところのものであります。

 本堂よりちょっと小高いところにある地主神社は桜の名所、謡曲「田村」や「熊野(ゆや)」にも出てくるところで、そこでは豊臣秀吉らが派手な花見の宴を催したりもしています。

 幕末の勤皇僧、月照が住持した成就院は本堂の西北にあります。安政5年(1858)幕府方の苛酷な追跡に西郷隆盛と月照は逃避行、西国の海に入水自殺をはかりましたが、西郷は助かり、月照は海中に消えたのでした。また、そこには、月照の忠僕、重助が主の功徳に始めたという忠僕茶屋がありましたが、いまはいかがでしょう、わたしはしばらく訪ねませんが。

 最後に大事なことは清水焼のことです。起源ははっきりしませんが、室町時代かららしく、江戸初期からは野々村仁清により、天下に有名になりました。初めは産年坂あたりが中心地でしたが、次第に清水坂、五条坂あたりに窯場が移されたようです。さて、あらためて清水山はまこと有名で、『今昔物語』、『平家物語』をはじめ多くの文学作品に登場、清少納言も清水坂を上って参詣したと『枕の草子』には記しています。


  第二十九回  第二十八峰 鳥辺山

 鳥辺山は平安時代から、洛西の化野(あだしの)、洛北の蓮台野とともに葬送の地でした。南は阿弥陀ヶ峰の麓から、泉涌寺(せんにゅうじ)あたり、北は東大路松原の六道珍皇寺の「六道の辻」から東に清水さんの麓までの広大な地を鳥辺山、鳥辺野と呼んでいました。そのあたり、現在は市バスが通っている東大路に、電車工事がなされた昔には、沢山の頭蓋骨がごろごろ出てきたのでした。今も知る人ぞ知ることにて、見つけられなかった、頭蓋骨がいまも地中にはたくさんあるはずでございます。

 さてその近くは毎年8月の「おしょらいさん(お精霊さん)迎え」の時期にはお線香の煙がみちて、向え鐘には行列ができます。謡曲、「熊野(ゆや)」は「げにおそろしや、この道は、冥途(めいど)に通ふなるものを、心細(こころぼそ)、鳥部山、煙の末も薄霞(うすかす)む。」と謡います。地名の六原(六波羅)は「髑髏(どくろ)原」のなまったものです。

  東大路五条、親鸞上人の廟所の西大谷さんには、安政3年の石造りのアーチ型の橋があります。眼鏡橋と愛称されていますが、その中の柱の一つがくるくるまわるようにできており、子供はどれかなと探して、くるくる廻して遊んだものでした。

  お墓へ参る道にはお線香屋さんがあり、各家の家紋入りの線香箱が預けられていたものです。「鳥辺山心中」のお染、半九郎のお墓のある本寿寺、お俊、傳兵衛のお墓は実報寺にあります。昔は真実、ロマンチックであったのかもしれません。その道は清水さんに通います。


  第二十八回  第二十七峰 霊山

 霊山は釈迦が法華経を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ているためつけた名前、「れいざん」と読まず「りょうぜん」と読みます。
 霊山方向へいたる道には八坂神社のあたりから東に向って八つの坂があります。そのあたりを八坂郷と証します由縁ともなっていますが、いわゆる祗園坂、長楽寺坂、下河原坂、法観寺坂、霊山坂、産寧坂(三年坂)、清水坂、山の井坂を指していいます。なかでも、際立って坂らしい坂は法観寺坂、霊山坂、山の井坂で、いずれも霊山への登り道です。
 平安時代、霊山には最澄が創建した霊山寺がありました。清少納言は『枕の草子』に中で「寺は壷坂、笠置、法林、霊山は釈迦仏の御住みかなるがあはれなるなり」と書いています。和歌では、藤原俊成が「鷲の御山」と詠んだ歌がありますが、それは霊山の歌です。

仮初(かりそ)めの夜半の煙とのぼりしや鷲の高嶺にかかる白雲

 麓には霊山護国神社があり、坂本龍馬、中岡晋太郎、吉村寅次郎、平野国臣、梅田雲濱ら維新に活躍した志士ら1043人の墓碑がずらりと並んでいます。「霊山歴史館」のそばには、高さ24メートルの霊山観音が一人の事業家の資財にて建てられています。世界平和祈願の観音です。


  第二十七回  第二十六峰 高台寺山

 高台寺山は高台寺がある山、東大谷山と霊山の間にある200メートルばかりの山です。とにかく、京都の東山はそれぞれの縁(えにし)、大方が仏縁につながりを持ち、またそれぞれがそれなりの縁につながり、名所旧跡となっています。このあたりを訪ね歩くには予定をうまくにたてれば、それだけで京都というところの根源、育ちがわかるでありましょう。

 さて高台寺山、あるいは高台寺、同じところですが理屈を言えば意味はちがう、とにかくそちらへいくには、観光的には祇園、円山公園から清水へ通じるその名も高台寺道がいいでしょう。近年相当に変わりましたが、道辺には築地の塀があり竹薮も見えるはずと思います。道は一本道です。

 東山三十六峰も比叡、修学院山、月待山、椿ヶ峰あたりからからこの辺りまで来ますと、大分、風景、環境も打ち解けてまいります。楽しみやすくになるとでもいいましょうか。

 いすれにしましても、高台寺は豊臣秀吉の妻、北の政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うため慶長10年(1605)に創建した寺です。やや離れて静かに立っている表門は伏見城の遺構です。開山堂は秀吉が使った船の天井、北の政所が愛用した御所車を利用したはなやかなものです。二人の像をまつる霊屋(たまや)は須彌壇(しゅみだん)や厨子(ずし)には蒔絵がほどこされていますが、いうまでもなく、それらは高台寺蒔絵として有名なものです。

 なお高台寺山の麓の茶室、傘亭、時雨亭は桃山時代の代表的な茶室として重要文化財に指定されています。


  第二十六回  第二十五峰 東大谷山

 東大谷山は古くは山腹に日蓮宗の東漸(とうぜん)寺がありましたため、東漸寺山と呼ばれていましたが、親鸞聖人が弘長2年(1262)死去され、この地、知恩院の裏山の大谷に埋葬されて以来、東大谷祖廟の発展、整備につれて「東大谷山」の名前が広まったのでありました。

 当時の東漸寺には祖師堂、二重塔と、間口11間半の居宅がありましたが、円山に移転して、その後、廃寺となったのでした。現在、東漸寺を偲ぶことができますのは、山上北側の旧墓地のみのように察しられます。そこには徳川家康の側近、御用達の茶屋四郎次郎の墓があります。先に第七峰茶山で語りました御朱印船貿易で巨万の富を得た京都の豪商です。東本願寺には分離独立した墓があると聞きますが、当地、旧東漸寺墓地には、子孫のお方のお話によりますと茶屋一族の7基の墓があると語られています。

 ところで、遠いお話しはともかく、わたくしども京都のものはその地を、心安く「東大谷さん」と呼んでいます、大谷祖廟は、八坂神社の正門、料亭中村楼の前を通ってすぐの鳥居を出たところの左手から東へ上る参道から始まります。参道の巨大な灯籠には文政4年(1821)の文字を見えます。

 一直線に石畳が続き、その奥まったところに祖廟が見えます。わたしがまだ幼かったころから、誰もいないその石畳が好きで、よく走ったものです。それは雪の日でした、走るわたしを追って、着物を着ていた母も走って、石段のところで転びました。わたしは悪いことをしたと思いました。とても後悔をしました。父は早くに日本にいなくて、母は一人であったからです。

 今も祇園さん(八坂神社)から中村楼の前を通って、東大谷さんの参道にかかりますと、そのことを思い出します。そんなことを思ってしまうような道なのです。いうまでもなく語ってまいりました「祖廟」は納骨の座でございます。

  はるばると身にそへてこしたらちめに 二たびけふは別れはてぬる
妙臨尼の『都の日記』より

  第二十五回  第二十四峰 双林寺山
  双(雙)林寺山は円山公園の南にある目立たない山です。天台宗双林寺は伝教大師の創建といわれ、この地があたかも唐土の沙羅雙林寺に似ているところからその名がつけられたといいます。しかしながら、中世に衰微、室町初期の再興を経て応仁の乱により再び衰退、その後は明治時代円山公園設置にあたり、その寺地の大部分を失ったのでした。思いがけずながらにも、この記事を書きつつ、都市の進展、変化といいますことには、充分な考慮がなされねばならないものと、考えられてしまいます。現在の京都の進化?を見てもしかりであります。
 さて双林寺のすぐ南には芭蕉堂があり、西行庵があります。

  願はくば花の下にて春死なん その如月(きさらぎ)の望月の頃

 西行は文治六年(1190年)、河内弘川寺で亡くなりましたが、この歌は双林寺で詠んだと信じられています。ところで、それから五百年、双林寺を訪れた芭蕉は西行を偲んで「柴の戸の月やそのまま阿弥陀房」の一句を残しています。
 なお、双林寺山の裾といいますか南西部の広い道路に面するあたりに、文人画家池大雅が妻玉蘭と暮らした跡、「大雅堂跡地」の碑が見えることを最後に記して置きましょう。

  第二十四回  第二十三峰 長樂寺山
  今更にですが京都の市街は碁盤の目のような道筋から成っていますが、東西に走る道、四条通を東に向いて歩く時、心ある人は思わず知らずに、突き当たりの東山に、それも八坂神社の赤い楼門の彼方上方に、小さな寺の屋根を見つけることでありましょう。寺が建っているところの山が長樂山、寺の名は長樂寺といいます。

 この寺は800年前の悲劇、平家の栄華と没落の話がいまに生々しく伝えられているところです。壇ノ浦に、わずか八歳の安徳天皇を抱えて沈んだ建礼門院は敵の源氏に海中から熊手で掬いあげられ、生き直しの苛酷な運命を背負うこととはなったのでしたが、文治元年3月、平家は滅亡、5月、門院はこの寺にて髪を落し、後、9月末に大原寂光院に隠棲の身とはなりました。寺には安徳天皇が身に付けていた直衣(のうし)が幡に仕立てられ奉納、秘蔵されています。

  今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつとぞなき

  かつて女院に仕えた建礼門院右京大夫の歌です。
  長樂寺から、さらに山道を辿りますと、『日本外史』で有名な頼山陽のお墓があります。山陽はこよなくこの寺を愛したと伝えます。
 なお当寺は「京の名所は祗園清水長樂寺」とまでかつては呼ばれた洛中第一の景勝地でではありました。いえ、今もそうでありますことには変わりないとわたしは思いますが、山陽は加茂川のほとり、「山紫水明処」から何時も遠望していたとさえ伝えられております。

  第二十三回  第二十二峰 円山
  円山は四条通の東の突き当たり、幕末までうっそうとした樹木に覆われた山といいますより、小高い岡のような土地でした。そのようなところが、急に変わりましたのは、明治維新後、新政府が打ち出した政策、神仏分離令、都市公園設置の方針に影響されるものでありました。

八坂神社はそれまで、祗園感神院(ぎおんかんじんいん)と呼ばれて神仏習合体でしたが、宝寿院、宝光院、神福院、竹坊、鳥居坊などの三院、三坊が打ち壊され、同時に祗園感神院は八坂神社と変わり、祭神も牛頭天王(ごずてんのう)から須佐之男命(すさのおのみこと)と呼称が変わりました。政策とは恐るべきものです。私たちはいまだに、祭神は左京区瓜生山に降臨した胡瓜(きゅうり)の好きな牛頭天王であると親しんでおります。

明治6年には、同じく政府の新政策、都市公園設置の方針により、八坂神社、安養寺、知恩院、長楽寺の境内地が召し上げられ公園となりました。これを名付けて円山公園といいます。明治19年のことでした。作庭は細川別邸、無鄰菴、碧雲荘などを手掛けた小川治兵衛(植治)です。

ちなみに八坂神社の正門は、四条通からよく見える石段を上がったところの門だと思う人が多いようですが、正門はその門から入って本殿前の右手、下河原へ抜ける道にある料亭中村楼の手前の門です。

円山という山の説明であるはずが、ただ、名所の案内になってしまいましたが、円山は明治維新で山から公園にかわったところでありました。でも、東山通りからだんだんに気付かないうちの東山に迫る、その勾配は歩いていますとこころよいものであります。

  第二十二回  第二十一峰 華頂山
 華頂山(かちょうざん)は、俗にわれわれ、京都の人間が知恩院(ちおいんさん)と親しみこめて呼ぶ、浄土宗総本山知恩院(ちおんいん)を守り固めるように、その奥に大きく深くに緑を展開する山です。

 われわれの愛称、「ちおいんさん」の話もさせていただきたいですが、この度は割愛して、華頂山に登る道の話を先行させねばなりません。華頂山に入る道は除夜の鐘で名高い大きな梵鐘、すなわち釣鐘の納まるお堂の東側から山手に辿ります。途中、法然上人と中国浄土教の大成者善導大師の霊的交信のあった所とされる場所があります。頂上の将軍塚まで三十分かかりません。反対側から自動車が上がれるようになりまして、夏の夜などは賑わいますが、かれこれ言いますより、当場所にかかわる『平家物語』巻第五の「都遷(みやこうつり)」の一節を開いた方が、早く、おもしろいのではないかと思ったりもします。

 『延歴十三年十一月二十一日、長岡の京よりこの京へうつされて後、帝王三十二代、星霜は三百八十余歳の春秋を送りむかふ。「昔より代々の帝王、国々ところどころに多くの都たてられしかど、かくのごとき勝地はなし」とて桓武天皇ことに執しおぼしめし、大臣公卿諸道の才人等に仰せあはせ、長久なるべき様とて、土にて八尺の人形をつくり、くろがね(鉄)の鎧甲(よろいかぶと)をきせ、おなじうくろがねの弓矢もたせて、東山嶺に、西向きにたてて埋まれけり。「末代にこの都を他国へうつすことあらば、守護神となるべし」とぞ、御約束ありける。されば天下に事いでこんとては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今にあり。』と。

 とにかく将軍塚は桓武天皇が平安京造営に際して王城鎮護のため、土で作った人形に甲冑を着せ弓矢を持たせて埋めた塚といわれています。わたしの祖母や先祖たちは、明治天皇さんはちょっと東京へいかはったけど、すぐにお帰りやすのやと、正直、思っていたらしいです。とにかく華頂山は京都人のそういう願いもこめて、知恩院さんのうしろにたてこもる山でございます。

  第二十一回  第二十峰 粟田山
 東山三十六峰の連山の事実上の形はここ、先の大日山で一応、断たれています、といいますと、ええっと何方も驚かれます。そうです、そのことは長らく京都に住み慣れているわたしどもですら、ついうっかりしているほどのことです。

先ず三条大橋からお江戸の方角へ真っ直ぐに歩きますと、先の第十九峰の大日山が正面に見え、山は続いているように見えますが、近づくにつれ、左右にわかれてその道、三条通、東海道、即ち国道一号線は裂かれた山の間を通ることになります。

そうなるまで、つまり整備されるまで、旅人は神明山、大日山あたりから日の岡峠の難路を越えて滋賀までの道を行き来していたのでした。しかしこの道の改修は数百年に渡って行われて来たと聞いています。明治、大正時代の工事にも犠牲者は多かったようです。道の寂しさには処刑場もあり、京都における、初の解剖場も近代まであったことはあまり知られておりません。

道の南側の大きなホテルの背後が粟田山です。山には浄水場が、麓には粟田神社と真宗仏光寺派本廟、皇室と深いつながりのある天台宗青蓮院門跡があります。

また粟田は古代の粟田氏の根拠地、粟田口は京の七口の最も重要な入り口、粟田小学校の前に「粟田口」の碑が建っています。いま一つ、与謝野晶子が「お目ざめの鐘は知恩院聖護院 いでて見たまへ紫の水」の歌を詠んだところ、宿泊した辻野旅館は現在の浄水場の中にありました。

  第二十回  第十九峰 神明山
 東山三十六峰を北から訪ねて一つ前の山、大日山までにて、数えて十八の峰々、すでにして半ばまでを訪ねたわけですが、ここまでは左京区、ここから十八峰は東山区となります。一つの区切りであるともいえるようです。

さて、神明山は三条通り蹴上の京都市浄水場の向い側あたり、日向大神宮と安養寺の石柱が立つ坂道から登るとよいと思います。道は三つに分かれていますが、右手の道をいきますと、日向大神宮、背後の山が神明山です。

日向大神宮は日向の高千穂から勧請された神で神明山の名の由来は内宮と外宮が伊勢神宮と同じ神明造りであることによります。山へ登るには、内宮の左の道がいいようです。しばらく歩きますと、「天の岩戸」があります。抜け通ると願い事が叶うといわれています。

この坂をさらに登りますと山科へも、また南禅寺、大文字山にもつながります。蹴上、日ノ岡の東海道が整備されるまでは、この山を越えて近江方面へ通うための要衝の地でもありました。

  第十九回  第十八峰 大日山
 大日山は山上に大日如来を祀っていたことからこの名があります。登るためには南禅寺の赤レンガの水路閣をくぐって駒ヶ滝不動の右の林道をいくコース、 三条蹴上(けあげ)の蹴上浄水場前の日向大神宮と青滝山安養寺の階段を上り、日向大神宮の境内を北に上がるコースなどがあります。

 大日山は東岩倉山とも呼ばれました。大きな石に神が降臨すると考える古代信仰から、平安遷都の時に京都の四方に四磐座(いわくら)を定め経文を納めました。その名残の一つです。ちなみに北岩倉は左京区岩倉の山住神社、南岩倉は下京区松原の明王院不動堂、西岩倉は西京区大原野の金蔵寺ですが異説もあります。

 日向大神宮は日向高千穂の峰の神跡をこの地に移して創建されたといわれ、社殿は伊勢神宮そのままの神明造り、山の緑にかこまれて内宮、外宮が建っており、天の岩戸の様子がうかがえたりします。

 この山は市内からはっきり望むことができないため、三十六峰の中では目立ちませんが、駆け上がる尾根、滑り降りるような坂道もあり、山科、南禅寺、大文字山、九条山へと分かれる道もあって、「思案処」のその名も興味深いところでもあります。

  第十八回  第十七峰 南禅寺山
 南禅寺山にはいうまでもなく、かの有名な南禅寺が建っています。三門は三条河原で釜茹での極刑に処せられた大盗賊五右衛門が「絶景かな絶景かな」と、大見得を切ったところと伝えますが、それは歌舞伎のフィクション。この三門は大阪の陣で戦没した武士の霊を弔うために藤堂高虎が寄進したもの、建立は五右衛門が刑死してから三十年後のことでした。

 南禅寺は亀山法王の御願により創建され、京都五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の上に置かれています。しかし、一方、庶民と深いところで結びつきがあることを見逃してはなりません。それは疏水の水路閣近くの最勝院の駒ヶ滝不動尊の根強い信仰です。滝は最勝院の奥の院で拝殿に箒、熊手、石段を磨く柄のついたブラシなどが置かれてあり、とても清潔で、滝にうたれに来る人もあります。当然のことながら、このあたりまでを知ることが、三十六峰、そのどこでもそうですが、知るということでしょう。
 この滝の脇の道をのぼれば、先に書いた若王子山のクリスチャン墓地に至ります。滝の下流は草川といいます。その辺りを草川町という謂れです。

  第十七回  第十六峰 若王子山(にゃくおうじやま)
 銀閣寺から疏水に沿って歩きますと、哲学の道とも呼ぶ道の終点、逆に辿りますと、起点の位置にあたるところに熊野若王子神社があります。山の名はその名にちなみます。神社は後白河上皇が紀州熊野権現を勧請したのが起こりで、足利義政が寛政6年(1465)3月4日ここで花見を開いています。

 神木のナギの木の前あたりの道が登山口になります。道は中腹で二つに別れます。左手は神社墓地、右手が頂上に至る道です。頂上は同志社墓地です。新島襄(にいじまじょう)をはじめ、新島夫人八重、徳富蘇峰、新島とともに同志社の基礎を築いた山本覚馬、ディビス博士ら同志社にゆかりの著名人の墓が並んでいます。
 新島襄は明治23年1月23日、大磯で死去、遺体は京都に運ばれ、みぞれの降るなか、京都駅から寺町丸太町上がる自宅まで学生が棺をかつぎました。全員が素足であったと聞いています。
 若王子山の真下に見える伽藍が永観堂です。創建は平安初期、永観堂と呼ぶのは、七世永観律師に由来するもので、本尊阿弥陀如来像は世に「見返り阿弥陀」と呼ばれておいでです。
 やがて紅葉の時季、若王子山の裏手の滝のあたりから、そろそろ気をつけて、くだりますと南禅寺の裏手に出ます。どうぞ、でも、こういうところは、ごゆるりとお出ましになりませんと、あぶのうございます、お気をつけて、東山三十六峰はまだ半分まいっておりませんゆえ。

  第十六回  第十五峰 椿ヶ峰
 椿ヶ峰は名前の通り椿が多い、他には檜、椎の木などが密生して光を通しません。
このあたり一体を鹿ヶ谷ということは今までにも語ってきましたがこの鹿はシシに通じるらしいことはこの山にくると何故かに実感をもって思います。

 ここには大豊神社があります。市バス、宮の前あたりから東へ、疏水にそう哲学の道を横切って、そのまま進みますと、すぐに参道です。入り口に山上憶良の秋の七草の歌が書かれています。

   秋の野に咲きたる花は指(および)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の色

 ご神体は本殿背後の椿ヶ峰そのものです。実際に行かれましてご覧になりましたら、その自然さ、気高さがよくわかります。有名な社寺よりよほどに身に迫る真実があります。そのあたりはまこと静かです。

 仁和三年(887)、宇多天王の病気平癒を祈願して勅命で医薬の祖神、少彦名命をこの峰に祭ったことにはじまるといいますが、南北朝の内乱、応仁の乱で殿社は焼失、文政三年の火災では古文書も失くしたのでありました。

 哲学の道の賑わいはわたくしども、京都のものの本意とするところではございません。できましたら神社の南、お玉の橋を渡って椿ヶ峰にも登ってみてください。橋を渡ったところには昭和四十一年当時二十五歳の村田睦穂巡査が殉職したところです。目立ちませんが石碑が建っています。花があげられているときもあります。ささやかな野花ですけれど、うれしいものであります。


  第十五回  第十四峰 善気山
 善気山は法然院をつつむ山であり、その山号でもあり、本山獅子(ししが)谷(たに)法然院、浄土宗の開祖法然上人ゆかりの寺であります。銀閣寺あたりから琵琶湖疏水に沿って南へ、西田幾多郎、河上肇らの学者が歩いた哲学の道をゆるやかに1.5キロほどで至ります。

 参道の正面に結界のような茅葺の門が見えます。入ると左右の大きな、盛り砂に時季折々の砂絵が見えます。箒でさっと水紋が描かれていたり、花や葉の模様が見られたりします。

 墓地には名家の墳墓が多く、そこには「多止利津伎 布理加幣里美礼者 山川遠 古依天波越而 来都流毛野哉」(たどりつきふり返りみれば山川を越えては越えて来つるものかな)の経済学者河上肇の短歌を刻んだ碑もあります。文豪谷崎潤一郎は「空」と「寂」の2字を彫り「潤一郎」と署名しています。

 現在この地は現管主の意向により、方丈が開放され古典音楽、仏画展、趣味の作品展などがひらかれ、お寺に無縁な若者も自然に集うところとなっています。

 南側は椿ヶ峯、善気山にも椿は多くうつくしく、続く安楽院には法然上人の弟子住連、安楽、後鳥羽上皇の官女、鈴虫、松虫の供養塔がございます。

  第十四回  第十三峰 紫雲山
 紫雲山は黒谷さんと真如堂に代表されるお念仏のお山、黒谷とは法然上人が比叡山の黒谷青龍寺で修行したことによる地名で、室町時代までは新黒谷とよばれていました。紫雲山は古くは「栗原の岡」とよばれていたといいますが、おもしろいことに、現在の「岡崎」の地名の起こりは、栗原の岡の先にあったためとも聞かれます。

  黒谷は幕末、会津藩の松平容保が京都守護職になった時、会津藩兵の宿舎であったところです、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で戦死した人たちの「会津藩殉職者墓地」が、この山の頂にあります。夜間、このあたりは京都の肝試しの場所として有名でありましたが、いまはそんなロマンな戯れをする人もありますまいことが嘆かれたりいたします。

  ところで、このあたりで唄われた、いえ、いまでも折々に知る人ぞ知る唄に「ああ、真如堂、飯、黒谷さん、ここらでいっぷく永観堂、そんなうまいこと南禅寺」と親しまれている言葉があります。ご推察くださいませ。

  それから、このあたりはその昔、冷寒地であり、自然がゆたかでありました時代は、蕎麦の花がさかりを見せる美しい谷間でありました。

     黒谷のとなりは白し蕎麦の花
蕪村


  第十三回  第十二峰 吉田山
 東山連峰には違いありませんが、連峰というより大文字山から見ますとすぐその下の白川通をはさんで、こんもり見える山が吉田山、さらに南へ続き紫雲山が見えます。このあたり、昔は京都の寒冷地でありましたが、現在の白川通一帯、銀閣寺前あたりから丸太町あたりには白い蕎麦の花が一面に開いていたと、聞かされたことがあります。百年も前の話ではありません。

 吉田山は神楽岡と同じです。神楽は神前に奏でる音楽の意ではなく、神が降臨した神座の意で、「かみくらの岡」を意味します。貞観8年(859)藤原氏の氏神、奈良春日神を勧請したのが、現在この地にある吉田神社の起こりです。代々の社家、吉田家は元の卜部(うらべ)家で、「徒然草」の吉田兼好もその一族でありました。
 また、かってここは旧制第三高等学校の学生たちのわが山でもありました。頂にはかの有名な校歌「紅燃ゆる丘の花」の碑が建っています。敗戦のあと、その歴史を閉じましたのは、昭和25年弥生31日、さらば三高、校歌の大コーラスが吉田山をゆるがしたのでありました。

  なおこの山中には京都大学の貯水池があります。明治時代、白川の谷水を落差を利用して吉田山に引きこみ、大学の飲み水に使っていたといいます。

  第十二回  第十一峰 如意ヶ岳と大文字山
 如意ヶ岳と大文字山は同じ山と思っている人が多いようです。おそらく京都のわたしどもも都合よく、確かにそうと思ってしまっています。ところが毎夏、懐かしいお精霊さんをお迎えし、また「さいなら」とお送りするその火のともる場所、山は、確かに大文字山で標高466メートルですが、如意ヶ岳はその背後、滋賀県境近くにあって472メートル、京都から頂上は全く見えません。ゆえにかどうか知りませんが、とにかく昔からのことですから、このままにしておきませんと、「東山三十六峰」がえらいことになってしまいます。

 ところで、大文字山へは銀閣寺の左手の谷から登るのがよろしいようです。大の字の中心あたりの山腹に弘法大師さんの小さなお堂があり、このあたりから京都市内が一望されます。京都の子供なら一度は遠足でここまで登ったはずです。わたしはここでチューブ入りの昔の搾り出しのチョコレートを失くした記憶があり、その後、幾たび登ってきましても、そのチョコレート探すような気持ちになってしまいます。

 京都のわれわれには、ほんとは如意ヶ岳でも大文字山でも、どちらでもよろしいわけで、大事なことは火がともる同じ続きのお山であるということです。ともかく、わたしは雪の日は雪が形づくる「雪文字」と呼ぶ大文字を、夏はもちろん燃える火の字を眺めて、遠い日、何故か火がともせないときは、白い服を着た子供たちがずらっと大の字の火床に並んだものでした。
  なお、如意ヶ岳には足利12代将軍義晴が山上に中尾城を築いたといいますが、銀閣寺からの登山コースには中尾水があって、城跡の表示板がたっています。いずれにしましても、京都にとりましては大事なところであったのでございますね。

  第十一回  第十峰 月待山
 月待山には銀閣寺山の異名があります。月を待つ山には違いないでしょうが、それよりも明治までは銀閣寺の山でありました。明治の上地令で国に取り上げられたといいます。

 月待山は四七二メートルの通称大文字山と呼ばれる如意ケ岳の裾にあたります。広くはない銀閣寺の庭の背後に立つ山で、庭との空間が少ないため、この山に月がかかるのは夜も更けてからになります。いかにも月待山であります。

  ここに山荘を営んだ室町幕府八代将軍、足利義政は

  わが庵(いほ)は月待山のふもとにて かたむく月の影をしぞ思ふ

 と詠んでいます。山の上から月がのぞくのは束の間、山ふところに深く眠る庭は闇の中に没して、ただ観音堂の前の白砂だけが鈍い銀色に浮かび上がっていたのでありましょう。このため、この庭は夜の庭と称されてきたようでもあります。
  しかしながら、妻、日野富子との中も冷え切っていた義政にとりましては、夢にまで見た隠遁の地であったのではないかとも思われてなりません。賑やかな修学旅行の子供たちも何時の日か、そんなことを考えてくれる時が来るような気がしてなりませんが。
  忙しい観光旅行の間に間に。何方様も、ちょっと心を沈めて四辺を見ていただけますときがございますようにと願います。

  第十回  第九峰 北白川山
 北白川山は、北白川山の元町(ヤマノモトチョウ)の東部、高さ一三〇メートルほどの丘陵です。地元では丸山とも、もともとその東の瓜生山の山頂にあった勝軍地蔵が参詣する人の便利のために下の山、北白川山に遷座したことから、その威厳のため瓜生山と混同して呼ばれるようにもなりました。

地蔵の移転は宝暦十二年(1761)ながら、現在もその影響は続き、その地に建設した大学の学園祭も瓜生山祭、そこに生活する人々も瓜生山と呼んでいますが、正しくは北白川山であります。 さて、江戸時代の地誌によりますと、白川村東北一帯の山はすべて白川山と呼ばれたとも見えます。北白川の名物は白川女です。かってこの山里は花の里と呼ばれ「女は献花をなりわいとする」といわれて、つい先ごろまで古来のしきたりによるいでたちで町に花を売り歩いていました。朝ごとのその花の何とみずみずしかったことか、ほんとうに惜しまれることです。 なお山腹、現在のバプテスト病院の裏手には、心性寺という寺の跡地がありますが、そこには江戸末期の歌人小澤芦庵の墓があります。芦庵を師事した太田垣蓮月は一時、この寺に身をよせていたことがありました。

世のうさもしら川山の夕ぎりに石きる音ぞあわれなりける
蓮月

このあたり、また白川石と呼ばれる美しい花崗岩の産地であったのでした。

  第九回  第八峰 瓜生山
         瓜生山、北白川山、茶山とその運命のように呼び名が入り乱れて・・・
 瓜生山は「城山」の俗称もあるように昔の古城跡でもあります。瓜生山の頂上には室町時代、瓜生山城とか、北白川城とか呼ばれる小さな城郭が築かれ、足利将軍家と細川、三好、松永氏らとの攻防が繰り返されたのでした。
この山に登るときにはいわれたものです。足の下の土の中には人骨がちらばっていると。

 また瓜生山が将軍地蔵山とも呼ばれるのは、京都に戦いが絶えなかった時代、延文6年(1361)山頂に戦勝祈願の地蔵堂が建てられてからです。ところが、山頂までは当時、難路のため宝暦12年(1762)、下の足場もよい北白川山に移したため、北白川山を瓜生山と呼ぶ人もあり現在、呼称が入り乱れています。その下だった山、低い山の茶山は現在、大学建設のため姿を失い、その名は前回に書きましたように叡山電車の駅名にしか残らず、余計、呼称がみだれているようであります。
 いずれにしろ瓜生山は一番奥、頂に近い清沢口には100平方メートルほどの陥没地があり、そこに明治大正の画家、富岡鉄斎が建てた「白幽子巌居址」があります。白幽子は詩仙堂の石川丈山の友人で、江戸中期の書家とされる伝説的人物です。その巌居址は晴れた日など、加茂川のあたりからも、それと思われる所在が見られます。

  第八回  第七峰 茶山
 茶山は今、叡山電車の駅名にしか名前を残さないのは寂しいかぎりです。茶山は東山三十六峰に名をかぞえる山です。その一峰がなくなってしまったように見える状態になるということは、風光明媚をもって旨とする京都にとって大変なことであるはずです。

 茶山は現在の白川通り南行市営バス上終町(かみはてちょう)乗り場のあたりから東へ向いて低い丘陵をなしていました。 
 現在の土地事情から説明しますと、上終町バス停から北へ、すぐの東へ登る道の角に「滅苦寺(めっくじ)跡」と印された碑が建っていますが、その場所の付近、特に右側の台地は確かに茶山であります。しかし現在は山の姿はなしておりません。
 所有は、古くは織田信長から森蘭丸、豊臣家、後に徳川家から江戸時代の京都の長者の一人、茶屋四郎次郎と移りましたが、名園茶山園として、時、長くに伝えられてきた山であったと聞いています。
 近代に至りましても跡を継いだ人が二千種に及ぶ植物を植え、自然に長く、その姿が伝えられ、近くの小学校の卒業生の話によりますと、池があって舟が浮いていたとも、その面影は長く留められていた様子であります。
 東山三十六峰の奥から瓜生山、北白川山に続く山として、麗しい姿をなしていたのは、ついこの間のことであったと思いますのに。いまは山という姿は消え失せました。その名がはるか離れた駅名に残っているのは、茶屋四郎次郎が山荘に出かけるための道を離れたところから作ったことによります。その道は現在も茶山道として、付近住民の便宜に役立っています。
 なおこのあたりは、太古、湖でありました京都盆地で最も早く、人間が生活していたところと伝えられています。

  第七回  第六峰 一乗寺山
 一乗寺山は小高い岡くらいの山でその名は平安時代に創建された一乗寺という天台宗のお寺に始まりましたが、南北朝の動乱で廃絶、現在ではその寺はどこにあったかは不明となりました。したがって山と地名に名を残すのみです。

 先の葉山の項で、そのあたりからすぐと書いた詩仙堂はここにあります。ご存知、丈山の隠棲地として有名、丈山は徳川家から離れてからは、世俗に背を向けて一級の詩人としての生涯をこの場所で過ごしたのでした。
 南裏にあたる金福寺は芭蕉ゆかりの寺。蕪村がここに芭蕉庵を再興、芭蕉の「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句碑もあります。なお幕末、安政の大獄で幕府のスパイとして活躍、のちに勤王方に逮捕され、三条大橋に生き晒しとなった村山たか女が隠棲したところでもありました。
 少し北東にもどりますと臨済宗、円光寺があります。このあたりは洛北屈指の観光地ともいえましょう。円光寺は家康ゆかりのお寺で円光寺木活字が残されているところでもあります。明治ごろから近年までは尼僧修養道場となっており、現今も京都の尼寺に活躍する多くの尼僧が育てられたのでありました。

  第六回  第五峰 葉山(はやま)
 葉山は一乗寺葉山町、修学院山に続く小さな山、どこからどこまでとは言いがたいが、この隠れ山のような山には幕末の安政の大獄で病死した、梅田雲濱が隠れ住んでいました。

 東山三十六峰の山裾伝いに歩いて見るのもいいものです。修学院山の修学院離宮からその下の道を南へ行くとすぐ曼殊院、西へたらたらと下って民家の横から北へ、細い道を森の中へ入りますと鷺の森神社、森をそのまま突き抜けてまた南へしばらく歩きますと、その左手、東側に葉山の観音さんの入り口が見えます。石段を上りますと小さなお堂があります。その背後が葉山です。
 こう書きますと遠いようですが、そんなことはありません。京都へお越しになりましたら、絵に描いたような観光ルートだけではなく、一度はぜひ、この辺りをお歩きになってください。名高い「詩仙堂」はここからすぐです。
 石段をのぼりつめますと、小さな土地に観音堂があります。境内は市街地がすぐそばとは信じられない静かさです。葉山の名前はこの観音堂を守護してきた近くの一乗寺村の住人、端山元春さんに由来するといいます。
 ここで有名なのは、始めに書きましたように勤皇の志士、梅田雲濱のことです。彼は若狭小浜藩士、京都で医を業としていましたが、幕府の目を逃れるため妻とともにこの葉山観音に隠れ住んだのでした。
 妻、信子がここで詠んだ一首があります。

  山寺の鐘の音さへ分かぬまで比叡の木枯ふきしきるなり

 思い見ますと、葉山観音のあたりはいまも、このような趣が感じられるところではあります。

  第五回  第四峰 修学院山
 今なお、上皇の美学に守られて、美しい修学院でありたく、また比叡に繋がる流れには時折、鹿の姿もあらわれて、離宮内の田は豊年満作のうれしさに溢れている頃合かと。
 修学院山は、比叡山の登り口、雲母坂を境として比叡山の西南にこんもりと広がる丘陵です。修学院の地名は、古くに、ここに比叡山の末寺修学寺があったことに由来します。修学寺とは比叡山の僧が修学のために籠った寺でありました。
  しかし何といいましても、いま修学院といいますと修学院離宮です。修学院離宮は後水尾天皇(1596−1680)の美意識の象徴で、一木一草まで直接、指揮したといいます。後水尾天皇は純粋なお方であったらしく、天皇の行動に規制を加えた徳川幕府に激怒、突然退位、その後、院政をしきましたが、関心は和歌、茶道、立花、焼物などの文化サロンにあり、中でも山荘の運営は最大の願いでありました。
  上皇が修学院に山荘造営を決心したのは明暦元年(1655)、離宮は約54万平方メートル、御茶屋と呼ばれる3つの庭からなっています。上の茶屋は大刈込みの苑路や赤松の道で通わせ、浴竜池では舟遊び、優雅な宴を繰り広げたのでした。
  地内の林丘寺は中の御茶屋の東に隣してあります。後水尾上皇が皇女光子内親王のために茶屋の正殿楽只軒を仏寺とされたもので、上皇の没後、内親王は剃髪、当寺に住事して当寺は林丘寺と称されたのでした。それより皇女が入寺されること三世に及んでいました。
  「京に田舎あり」という言葉がありますが、修学院あたり、人家が増えたといえ、市中と比べますと、なんとなくのんびりとしたところも伺えます。高野川のあたりには、鹿が迷い出ることもありまして、よいものです。これも修学院離宮のおかげかも知れません。わたしども京都の一般市民は観光より静かな環境が保たれることを乞い願っております。しかしながら、それであってこそ、又皆様に愛でていただける京都でありましょうかとも。 

  第四回  第三峰 赤山(せきざん)
       赤山は中国の地名、慈覚大師円仁が遣唐使としての
       十年間の中国への感謝を込めてつけた名でした。
  赤山は、白川通り市バス「修学院」下車、山手東へ赤山道をしばらく歩いた天台宗赤山禅院に由来する高さ一九六メートルの山です。
山の名を表す赤山禅院が創建されたのは、仁和四年(八八八)第三代天台座主・慈覚大師円仁の遺言によりました。円仁は最後の遣唐使船で唐に入り十年間の、その苦難の記録『入唐求法巡礼行記』には、中国文登県清寧郷赤山村での暖かい援助を涙するほどに感謝して記しているといいます。
赤山禅院の建立は、赤山村の人たち、多くの中国人への感謝と仏恩報謝のための円仁の悲願であったのです。
そうして建立された赤山禅院は、京都御所の表鬼門にあたり御所をお守りするお寺、また延暦寺の守り神さんでもあるという神仏習合の色を濃くして、大鳥居には、「赤山大明神」と示され、人々はここを「赤山さん」と呼んで親しみをこめています。
拝殿の屋根には厄除けの猿が「去る」の意をこめてまつられています。なお、へちま加持、都七福神、夢見の宝船なども有名、まこと庶民のお寺でもあります。
しかしながら、当寺は比叡山千日回峰行者さんの聖地でもあり、祈りと苦行の山、赤山でもあります。といいますのは千日回峰行者さんは、午前二時比叡山の無動寺谷の明王堂を出発して、一日三十キロの回峰を五年で七百日、この後、生き葬式と呼ばれる堂入り、九日間の不眠、不臥、断食断水という荒行を終えた後、こんどは赤山まで一日五十キロの赤山苦行を三百日、さらに八十四キロの京都大回りを行うのでした。そのときは赤山禅院には早朝、ひざまづいて行者さんのお数球をうける人が集います。

次回は第三峰「修学院山」

  第三回  第二峰 御生山(みあれやま)
        京都に住んでいても知らない人の多いその行列は、二千五百年前に始まった
 御生山は神がお生まれになった山、すなわち、玉依媛命(たまよりひめのみこと)が上賀茂神社の祭神、別雷神(わけいかずちのかみ)をお生みになったところです。
比叡山の壁がすぐ後ろに迫る山ですが、叡山電車三宅八幡駅から東北方向、山手に二キロ、小さな橋を過ぎ、そのあたりから木の根もあらわな山道を登りますと朱塗りの鳥居、すぐに苔むした石垣が続き、やがて御蔭神社に至ります。
御生山はまた御蔭神社があるところからでしょうか、御影山とも、また二葉の葵の群生しているところから、二葉山とも呼ばれますが、代々、高野、八瀬、修学院に住む人たちからは御生山と呼ばれています。高さは二百五十メートルほどの山です。
この山が一番賑わうのは五月十二日、葵祭執行のため、下鴨神社が御蔭神社の祭神、玉依媛命と、その父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の荒魂(あらみたま)をお迎えする神幸祭が行われる日で、その神事は京都で一番古い神事とされています。正装した神職、従者らが烏帽子(えぼし)に葵と桂の葉をかざし、従います。
下鴨神社の祭神と同じなのですが、下鴨神社の祭神は和魂(にぎたま)で庶民に愛される優しい祭神でありますので、葵祭執行のための力として、強い荒魂(あらみたま)をお迎えするための行事であります。
一昔前までは、行列は山道にえんえんと続きました。蘇芳(すおう)、朱(あか)、鈍(にび)、縹(はなだ)、色とりどりの祭衣をまとった宮人らが、優雅な馬上姿を見せ、検非違使(けびいし)、衛士(えじ)、音楽を奏する役の伶人(れいじん)が神妙に供奉しました。折からの五月晴れの空の下に、比叡山の新緑を背後にしたその行列の印象はじつに優雅で、じつに壮麗で、いつまでも眼に残るものでありました。
京都の人も知らない人が多いその行列は二千五百年前に始まりました。近年、「神さんは重とうおっさかい」とか、そんなことでよろしおすのでしょうか、自動車に分乗お供していますとか。昔を知る者を嘆かせております。

次回は第三峰「赤山」

  第二回  第一峰 比叡山(ひえいさん) その二 伝説から偲ぶ歴史
  「経読む髑髏」。伝教大師がはじめてこの山に登られた当時については色々な伝説があります。いまここに挙げるのもその一つです。ひえいさんに分け入ってからまだ間もない伝教大師、当時の最澄和尚が、静寂が身にしむような夜に草庵に端座していたとき、どこからともなく朗々と冴え渡る読経の声が聞こえて来ました。まさか誰一人こんな山中にいようと思わなかった最澄でしたが、耳を澄ましていますと、それは疑いなく法華経をとなえている声です。
 やがてその不思議の声に誘われて草庵を出た最澄は歩き回った末、やっと止観院の西にある小高い塚のあたりに、その出どころを突き止めたのでした。かってから、法華三昧院の建立を思い立ちながらも行き悩んでいた最澄は、こここそ有縁の土地に相違ないと思い定め、間もなく地ならしにとりかかったとき、一つの生々しい血のしたたるような舌をもった髑髏が発掘されたといいます。
 毎夜々々、人影もないのに朗々と経をとなえる声がしていた謎がはじめて解かれたのでありました。
 「ひくひくめ」。これは子供の遊戯として、遊んだ経験を持つ人も多いと思う かくれんぼと同じで、昔、ひえいさんの般若院の広庭にはじまった遊びでありました。「和尚様!、さあ早う出ておいでなさいませ、またいつものようにひくひくめをいたしましょう」と般若院の広場に集まった子供たちが、口々にはやしたてる声に応じて、やおら立ちあがられた恵心僧都は、「おヽ。これはこれは大勢集まっているのじゃな、さあそれでは今日もまた、しばらく見せてもらおうかな」とおっしやりながら、日当たりのいい縁先にどっかと腰を下ろされるのでした。
 やがて二組に分かれた一方の子供が、他の組の子供をつかまえて奪い去ろうとします。一方は奪われまいとします。これは罪びとが獄卒にひかれていくのを、地蔵菩薩が助けようとなさる様子をあらわしたもので、恵心僧都が経文の諸説になぞらえて子供たちに遊戯せしめたものでありました。子供といいますが年端もいかぬ小僧さんであったかも知れません。
 出来ましたらひえいさんは一度、歩いてのぼり、歩いて東塔、西塔、横川と尾根伝いに廻ってください。幾種類の花を見、鳥の声を聞くことでしょう。それもひえいさんの姿、ひえいさんの声そのものでもあり、教えでもあると気づかれることでしょう。

次は第二峰「御生山」(みあれやま)

  第一回  第一峰 比叡山(ひえいさん) その一 名称から偲ぶ歴史
  ひえいさんは、われわれが毎日見ている山です。見ているというより自然に首をそっちに向けますと見える山です。
  わたしは小さいとき、身体が弱くて、このまま町の中で暮らしていましたら、大きくなれないといわれましたそうで、あわてた親たちは大事をとりまして、わたしをひえいさんの麓の一軒家に転地療養させてしまいました。そんなこともありまして、わたしにとりまして、ひえいさんは親のような山です
  さて歴史といいますより、その名称の一覧を並べましたらそのこともわかるように思えます。まず、もとは「ヒエノヤ」と呼び、日枝、日吉、比叡などの漢字があてはめられていましたが、「日得山」は火の神の光を得ようとして、しかも、この山に向かって祈ると、かならずその光が得られるゆえにその名がありましたようで、「比江山」は東麓、近江平野にたたえる湖水と相対比する山として、「比枝山」は近江の国栗太の郡に神代から栗の古木があり、亭々として空をうがち雲に入って、その枝があたかもこの山と並比したことに由来します。なお「我立杣(わがたつそま)」は伝教大師が始めてこの山に中堂を建立し給えるとき「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ」と詠じたことからでした。「天台山」は、天台宗の縁にて中国の山名を模すことから、「台嶺」は台嶽とともに天台山の略称としてでした。なお「北嶺」は奈良の諸大寺を南都と称するに対して用いられ、時には高野を南山と呼ぶ対称として等々であります。
  伝説として残るものに、「椿堂」があります。この物語は西塔の入り口にあるお堂の話ですが、伝教大師以前のひえいさんについて、一つの暗示を与える伝説です。「実に幽寂なお山じゃのう、かの天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)もおそらくこのようなおやまであろう」などと語りながら老樹鬱蒼とした山の中を歩まれたのは聖徳太子でありましたとか、そのとき太子が杖にしていた椿の枝をつきたてられたところに建つ堂がいまも千年の名を残す椿堂であります。
  ひえいさんのはなしは途絶えることがありません。ひえいさんは、いまも、ただ自動車であがり、すぐ、走りぬけて降りてくるようなところではないと思います。


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