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そもそも、「さくらと百日紅」、この題名から、何を、誰を思い起こしていただけるか心配いたしますが、いまは爛漫の春、この季節に書いておきたいことではありました。
四条の一力から花見小路を上って、白川沿いを西へ入った巽橋の近くの川岸、そこにはいうまでもなく京名所の一つにあげられる吉井勇の歌碑が建っています。頃は四月、その周辺は花ざかり、まさに花酔れ(はなどれ)と呼ぶにふさわしいとき、京都を訪れる人々は、必ずといっていいほどに、巽橋にたたずみ、カメラにおさまり、やや西のその碑の前にたむろします。歌人と名乗る種類の人も、いまさらに恥ずかしげもなくたたずみつつ、その歌を口ずさんだりしているのです。いうまでもない、「かにかくに」に始まる歌です。すでにこの項「京都今昔はなし」では先に書き記しております。
ところで題の意味に触れていかなくてはなりません。そこには勇がおります。多くの人が白川のその碑の歌を口ずさんでいてくださるチャンス、この季節に「百日紅と勇」についての今昔ばなしをしておこうと思います。
さて第一歌集『酒ほがひ』の「祇園冊子」の中に納められた歌碑のその歌以降、京都への永住までの勇は、離婚、家督相続による負債など、大きな人生の転換を経つつあった期間を過ごしておりました。土佐山中への隠棲はまさに自らへの流罪、生弔いでもあったのですが、昭和13年、勇は再婚の妻、孝子をともなって、京都市左京区北白川東蔦町の借家へ落ち着きました。その門前にあったのが百日紅の樹でありました。「百日紅の花のあかさやしみじみとこよひは妹(いも)に頬よせむもの」などと詠んでおります。花は真っ赤であったことが証明されています。北白川には昭和19年まで住みました。
わたしはその近くに近年、住みながら、回り道をしてもその前を通り、勇が住んだ証のようなその「百日紅」を季節ごとに、どんなにか眺め続けたことでしょう。花はまさに燃えるような赤でした。ところがつい先ごろのことでした、門前が改築されました。わたしは慌てて百日紅を探しましたがありません。勇がいた日から、幾星霜、育ち続けた老木は大きな切り株を残すのみの姿となってしまったのでした。それは吉井勇のみのことではありませんが、近ごろ、あの方のと思う、京都にお名残惜しい方々の住いが事も無く消えゆきます。それぞれ後に住まわれるお方のご都合のことながら、よいことですし、何かのしるしが残せないものかとしきりに思われてなりません。勇の終の棲家は銀閣寺門前町、そこにもなんのしるしも見当たりません。
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